愛と死の妄想  feseppuku.exblog.jp

ショートな妄想フィクションを書いています


by kikuryouran
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悪女の顔

呆然と佇む女の足元に男が倒れていた。
「愛していたのよ、本当に。」
手に持っていた血まみれの包丁を落として、女は男の傍らに崩れるように座り込んだ。男の頭を膝に抱いてしばらく顔を眺めていた。
いい歳をした男と女が命を燃やす恋をした。互いに夫がいて妻がいた。最初は遊びの心算だったが、もう若い頃のように器用には愛せなかった。

あの人はきっと愚痴を言っただけだった。もう心を許せるようになっていたからかもしれない。私も甘えていたのだと思う。
普段なら痴話喧嘩で済んだはずが、言葉の弾みから出た別れ話に、半ばは脅し半ばは本気で私は包丁を握っていた。
「別れるくらいなら、あんたを殺して私も死んでやる。」
「俺だって本望だ。やってみな。」
彼は挑むように肩をいからせた。
見詰め合ったのは一瞬だったが、微笑みながら『一緒に死のう。』と言われた気がした。包丁を握ったまま、私はスローモーションのように彼に駆け寄った。包丁がゆっくりと彼のお腹に吸い込まれていった。

後で考えれば、あの人だってきっと本気ではなかったろう。しかし愛していると思い始めて、いつも私はこんなシーンを意識していた。こんな結末しかなかったのかもしれないと思うと、少し気持ちが軽くなった。この人だって、喜んで死んでくれたに違いない。これで良かったのかもしれない。
着ているものは返り血に染まっていた。上半身裸になって包丁を取った。彼と同じところに突き立てようとした。躊躇い傷を幾つもつけてお腹を切った。不思議なほどに痛くはなかった。

廊下に人の気配がする。気が付くと傍らに男が死んでいた。何があったのか思い出すのに時間がかかった。お腹から血を流して私はまだ生きていた。
喉がからからだった。蛇口に口をつけて水を飲んだ。体中に血がこびり付いていた。シャワーを浴びると、お腹の傷はもう塞がりかけていた。

逃げたのではなかった。死ねる場所を探しに部屋を出た。行くあてもなく電車に乗って彷徨った。数日してからやっと事件が報道された。私はもう離れたところで、関係ないような気持ちでそれを見た。私の顔が稀代の悪女としてテレビに映し出された。
「これが悪女の顔なのか・・・。」
私は不思議な思いで映し出された自分の顔を見ていた。
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by kikuryouran | 2007-10-18 03:23 | 平成夢譚 | Comments(0)